Oct 09, 2010

教習所の敷地に野良犬が

教習所での技術指導を受けている時、隣の敷地に野良犬が入っていたこと私の運転する教習車の目の前に、その野良犬が飛び出したしました。慌てて急ブレーキを踏んでいたが間に合わず講師補助ブレーキを踏まれてしまいました。いくら本だが、もし今の人だったらどうするだろうと教官からの山々説教されました。
大学生の時、夏休みに友人数人が自動車運転免許を持っているという話をするとよく話題に上がったのが合宿免許です。短期間で、自動車運転免許を取得することができるという噂を聞いて皆興味を持っていました。大学のホールには合宿免許のパンフレットなどを置いていたので、よくみんなで合宿免許に行こうという話があります。
 宮城県気仙沼市の離島・大島の元市職員、白幡洋一さん(71)と妻昌子さん(69)は5日、市街地にある洋一さんの妹の自宅から連絡船で大島小学校の避難所に戻った。「文明生活から避難生活に逆戻りです」。島東部にあった自宅は津波で失った。

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 1日になってようやく海を渡り、妹や友人宅で5日間を過ごした。「3週間ぶりに風呂に入って、こたつで温まった。刺し身、焼き魚、てんぷらも食べた」。また、底冷えする体育館で眠らなければならない。食事も改善されてはいるが、煮物、おかゆ、カップ麺などで、野菜が不足している。それでも「長く暮らした島を出ることは考えられない」と言う。

 島と気仙沼港を結ぶ交通手段は、定員90人で1日9往復する客船だけ。輸送手段がないため、簡易シャワー、仮設トイレ、給水車などの大型の物資は避難所まで届かず、すべて島内にあるもので賄っていた。電気は8日深夜にようやく復旧した。

 避難所の運営スタッフ、小松ゆりさん(42)も島北西部の自宅を流された。夫(51)は勤めていた造船所が被害に遭い、3月末から三重県に単身赴任し、高校に合格した長男(15)と市街地でアパートを探している。「島にはまだ同じ境遇の友人がいる。みんなここで頑張っている」と力を込めた。【杉本修作】


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 庭にトラックが突っ込み、崩れた家屋がなだれ込む。1階は黒い泥に覆われ、家具や畳が散乱する。宮城県石巻市の無職、牧野茂さん(66)は津波に襲われ変わり果てた自宅の2階で一人暮らす。「家が何とか残っただけでもありがてえ。こっから立ち上がるしかねえべ」と前を向く。

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 2日に避難先だった市立湊小学校を出て自宅に移った。食事は湊小の炊き出しや、妻が身を寄せる市内の妹宅で賄う。自宅2階はほぼ無傷だが、暖房がないので布団を3枚重ねて寝る。「寒いけど足を伸ばして気兼ねなく寝られるし、やっぱり家が一番落ち着くな」

 温和な人柄で近所に顔が広い。地震当日は間一髪、難を逃れた。「水さすぐそこまで来たった」。津波が迫る中、近所の足の悪いお年寄りらを湊小に送り届けた。

 湊小に避難中、張り紙に書かれた「生きていてくれてありがとう」という言葉が心に染みた。「希望を持って、無理せず頑張ろう」と思った。毎朝のラジオ体操を提案し、避難者の日課となった。

 早く自宅を片付けたいが「たんすや畳は一人じゃ運べねえ」。ボランティアに手伝ってもらえるよう、市に申し込んでいる。生まれてからずっと住み続けてきたこの地で、人生を全うしたい。

 「生かされた命を大切にしねえとな。1年後には、直った家でまた女房と穏やかに暮らせてるといいけどな」【福永方人】


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 1日になってようやく海を渡り、妹や友人宅で5日間を過ごした。「3週間ぶりに風呂に入って、こたつで温まった。刺し身、焼き魚、てんぷらも食べた」。また、底冷えする体育館で眠らなければならない。食事も改善されてはいるが、煮物、おかゆ、カップ麺などで、野菜が不足している。それでも「長く暮らした島を出ることは考えられない」と言う。

 島と気仙沼港を結ぶ交通手段は、定員90人で1日9往復する客船だけ。輸送手段がないため、簡易シャワー、仮設トイレ、給水車などの大型の物資は避難所まで届かず、すべて島内にあるもので賄っていた。電気は8日深夜にようやく復旧した。

 避難所の運営スタッフ、小松ゆりさん(42)も島北西部の自宅を流された。夫(51)は勤めていた造船所が被害に遭い、3月末から三重県に単身赴任し、高校に合格した長男(15)と市街地でアパートを探している。「島にはまだ同じ境遇の友人がいる。みんなここで頑張っている」と力を込めた。【杉本修作】


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